不動明王・庚申塔・二十三夜塔・甲子塔

国東半島の六郷満山文化を象徴する本宮磨崖仏の不動明王民間信仰

不動明王

不動明王は大日如来の使者、若しくは教令輪身(きょうりょうりんしん)と解される。教令輪身とは知来の変化の一形態である。如米が仏本来の姿であらわれるとき、これを自性輪身(じしょうりんしん)という。また如来が菩薩の形をとり、親しく仏法の布教に当たって衆生を感化するのを正法輪身(しょうぼうりんしん)、そして忿怒の姿を執り、命令を以て愚民を改悟させるときを教令輪身というのである。

不動明王は一切の罪障を焼亡せしめるという大智の炎を身から発し、盤石の意志をもって少しも動じるところがないという。ゆえにこの名がある。その像容は、一面二臂の忿怒相で、目を剥き牙を露わにし、左手に宝剣、右手に羂索を持して身には火炎を負う。近世の石仏をみてもその造立例は少なくない。これは不動明王を信仰の中心とした特定の宗派が存在せず、いずれの宗派にあってもその信仰が需要されたということも一因をなしていると言えるだろう。

庚申塔

庚申待の行事は、室町以降盛んとなったもので、これは中国の道教にいう三尸説に由来する。人は生来三匹の虫(三尸)を体内に宿して、庚申の夜に昇天してその人の罪過を司命の神(天帝)に告げるという。そのため、六〇日毎の庚申の晩には里人相集い、謹慎徹宵して睡眠中に三尸が昇天するのを阻害しようとする風が生じ、各村落には延命招福を願って庚申待の講が結ばれ、しだい記念の庚申塔造立も行われるようになり、江戸時代にはその全盛を迎えたのである。この時期に入ると、最早本来の宗教性は薄らいで、村人挙って痛飲貪食という、一種の遊戯的行事としての定着を見るに至った。

庚申塔は沖縄県を除くほぼ日本全域に分布しており、その形状も多岐に亘る。特に関東・中部地方には多く存在し、この周辺に於いても相当数確認されている。庚申塔は刻像塔と文字塔に大別出来るが、前者は江戸中期(享保年間)に造立のものに多くみられ、悪疫を折伏(しゃくぶく)するといわれる青面金剛、道案内に拘る猿田彦神などが本尊として彫刻されている。ただし猿田彦神の刻像例は非常に稀であり、青面金剛に比すれば雲泥の差がある。このほか三猿、日月を刻んだもの、邪鬼を配したものなどがある。文字塔では庚申塔、庚申供養塔、青面金剛、猿田彦大神などの文字を刻んでおり、自然石をそのまま用いた簡素な形式のものが多い。また、庚申塔の造立時期を月別にみると、大師講の盛んな一一月が最多である。

二十三夜塔

月待信仰の一。月を聖視し、その昇天を待つ行事で、全国的に見られる風習である。しかその起源においては定かでなく、中国の習俗が伝播したものであるとする説と、日本古来の神道に源を発するという説があって、意見の分かれるところである。民間での月待信面が明らかに確認出来るのは室町時代に入ってからで、この時期には板碑(板状の石造供養塔)形式の月待供養塔が関東地方に造立されていた。この場合は十二天の一、月天子またはその本地である勢至菩薩を本尊として祀っている。

月待が行われるのは陰暦の二三日が最も多く、二十三夜塔はその標である。人々は二十三夜の講を結び、月齢二十三の夜に一堂に会して談食しつつ月の上天するのを待った。二十三夜の主尊である勢至菩薩はその知慧の光で衆生の啓蒙を図るとされており、これが延ては立身出世に繋がることから二十三夜講には主として男子の参加がみられたという。

二十三夜塔の造立は江戸後期が最も盛んで、その大部分は自然石を用いた文字塔である。これには二十三夜塔、二十三夜供養塔、奉供養二十三夜待などの文字が刻まれる。稀に勢至菩薩を像った三夜塔もある。なお造塔はされないまでも議は昭和中期まで存続していた、といった場合も決して少なくは無く、この周辺にもそうした地域が多く存在している。

十九夜塔

ここで十九夜塔についても少し触れておきたい。十九夜塔は栃木県を中心として、茨城・千葉方面に分布している月待供養塔の一種で、こちらは如意輪観音の彫像が多く、文字塔は先ず見受けられない。十九夜講は男子の二十三夜講に相対する、純然たる女人のみの講であったため、安産祈願も目的に含めて子安観音を刻み、これを十九夜塔とすることもしばしばであった。

甲子塔

甲子待の供養塔。陰暦甲子の宵、甲子議の結衆が参集し、大黒天を祀って福徳を招来する、というものである。陰陽道では、甲子の日には十干(甲、乙、丙、丁、……)十二支(子、丑、寅、卯、……)の夫々の首の結び付きから極めて特殊な日と考えられ、祭礼を行うにもっとも吉、とされていた。これをもって甲子の日が特に選ばれたのであろう。

大黒天との関係

大黒天はもともと戦闘神、古くは象皮を背負う全面黒色の忿怒像が一般であったが、我が国では仏法護持の善神として寺院の食堂(じきどう)等に多く祀られるようになり、更に我が国の上代神話にある大国主命との習合を経た結果、福を招き財を齎す神としてその信仰は民間にも浸透するまでに至った。こうしてその像容も、左肩に大袋を下げ、右手には打出小槌を握って米俵の上に乗るという姿に変化し、室町期の成立と考えられる「七福神」の一つにも数えられるようになった。甲子塔の主尊として造立されたものの外、単なる福神として祀られた場合もある。

甲子塔は文字塔が大半を占め、甲子塔、甲子供養塔、大国主命、大己貴命(おおなむちのみこと、大国主の別称)などと刻んでいる。甲子塔の分布は中部以北の広範囲に跨り、この周囲では太田・日立西部で確認されている。日蓮宗寺院の壇家では大黒天信仰が特に盛ん(日蓮上人が崇仰していた)で、甲子塔の造立も宗徒によって行われた場合が多い。

主要参考文献

・清水俊明著『石仏』(講談社)
・庚申懇話会編『日本石仏辞典』(雄山閣)
・日下部朝一郎著『石仏入門』(国書刊行会)
・川勝政太郎著『石像美術の旅』(朝日新聞社)