天狗と流星の歴史

尾道千光寺の石鎚山行場の岩肌に彫られた烏天狗民間信仰

天狗の登場と天文現象

天文現象に着想を得た天狗という存在

あるときは鳶のような鳥型であるとされ、またあるときは鼻高の山伏のような出で立ちであるともされる、日本独自の魔物というべき存在が「天狗」である。

さきにも述べたとおり、わが国における「天狗」の文献上の初見は、『日本書紀』舒明天皇九年の次の記載とされている。

「大なる星東より西に流る。便ち音有て雷に似たり。時の人曰く、流星の音なり。亦た曰く、地雷(つちのと)なり。是に於て僧旻僧(ほふし)曰く、流星に非ず、是れ天狗(あまつきつね)なり。其の声雷に似たるのみと。(中略)是の歳、蝦夷叛し以て朝せず。」

『史記』巻二十七の天官書にも次のようにとあることから、天狗は当初、中国に倣って、兵乱をもたらす妖怪と考えられていたことは明らかである。そして雷や隕石、流星といった天文現象がその着想の根底にあったことがうかがえる。

「天鼓、音有り。雷の如くして雷に非ず。音地に在りて下地に及ぶ。其の往く所、兵を其の下に発す。天狗の状大奔星の如し。」

その後の六国史においても、流星の出現はしばしば「怪異」との認識のもとに載録がなされており、たとえば『日本紀略』康保四年九月九日の「流星之変異」の際には「天下に大赦を詔す」の措置が執られている。

そして、『中右記』天永三年十一月十日条には次のようにあり、流星を天狗とする観念が、 宮廷における陰陽寮の活動とともに宣伝されたであろうことが窺える。なお、「天官書」にもあるとおり、「天狗」と「天鼓」は同一の存在とされる。

「近日天下鳴動の事、富士に非ずして朝間山焼く、是れ天鼓の由、天文博士申す所なり、尤も恐るべし、又奇雲天に横たひ、流星雲を照らすの怪異、夜々数度、(中略)仍て院此の日は十座仁王経有り、明日結願すべし」

光り物・人魂との関係

ところで、一般に流星すなわち天狗という明確な認識があったと言えるかどうかは疑問である。たとえば、流星を指す怪異現象に「光り物」があるが、『吾妻鏡』建保元年六月廿九日条には次のようにあり、流星は死霊である「人魂」と区別がつかない程度には似た存在であったことがうかがえる。

「戌の刻、光物有り。 暫く北天を照らし南方に行き地に随(墜)つ。天岡の如く所々曜く。諸人之れを見て、或ひは人魂と謂ひ、或ひは流星と称す」

『今昔物語集』をはじめとする説話文学中にも流星を天狗であるとする叙述は確認されておらず、この時代の天狗流星観は、おそらくは貴族的教養の域を出なかったものと思われる。

大乱を呼ぶ流星としての天狗

中世の天狗暗躍

南北朝・室町時代に入ると、大衆文芸への登場を契機として、流星は確実に天狗として の個性を発揮するようになる。すなわち『太平記』巻第五「相模入道田楽を弄び并びに闘犬の事」に、天狗が田楽を舞いつつ「天王寺ノヤウレボシヲ見バヤ」と唱和したとある。

「ヤウレボシ」とは「天下将に乱るるの時、妖霊星と云ふ悪星下りて災ひを成す」ところの「妖霊星」にほかならず、聖徳太子に附会して偽撰された四天王寺蔵『未来記』の予言「人王九十五代に当り、天下一乱して主安んぜず」を不気味に暗示している。

そして、この『未来記』の源流である 『四天王寺御手印縁起』について、赤松俊秀博士が「この縁起の『未来記』としての価値は、太子の霊の影のように立ち添う守屋の霊が、生々世々活動することを予言していることにある」と述べられていることからも明らかなように、この『太平記』の記述には物部守屋の怨霊が時代を超えて戦乱の惨禍をもたらすというモチーフが取り込まれている点も注目される。

その他、『応仁略記』下巻や『大乗院日記目録』寛正六年九月三十日条にも、それぞれ次のような記述がある。この時期において、流星は天狗の化現と考えられており、やがて来る天下大乱の兆しとして恐れられていたことがわかる。

応仁略記
「去し寛正六年九月十三夜。流星の告ありて。いくばくならず。愛宕の山の太郎坊。両天狗を召請す。無数の眷属引率して来る。各談合あり。(中略)今度流星凶を示す。是に驚かざる重酔(ママ)おもふ程の時代なり。唐朝天竺は思ひのまなり。吾が日本国こそ仏法東漸して。いかゞ/\と伺ひしに。時を得たりと喜び合り」

大乗院寺社雑事記
「夜天狗・流星、一天下振動す、日本開闢以来始てか云々、何事出来すべきか」、同じく応仁十三年「併て天狗、流屋の所為、無力の次第なり、当に大乱〔日本初例なり〕、流星是又た日本初なり」

近世人の理解

流星との関連性の理解

いっぽう、近世においても、『古今百物語評判』第三巻に次のようにあるのをはじめとして、天狗と流星との関係が継続して理解されていたことは、当時の小説や随筆などの記述から窺い知ることができる。

「星の名に天狐星といふほし史記天官書天文志等に見え候へども、いかなる星ともはかりがたし。(中略)是れ皆深山幽谷にすむ魑魅の類なり」

近世末期に至ってもこの点に変わりはなく、弘化元年の『藤井此蔵一生記』にも次のようにみえ、そしてこのような、流星は天狗であるとの知識は、『史記』や『日本書紀』などの古書典籍によって養われたものであることを指摘しうる。

「十一月廿日朝六つ時、光物東より西へ飛。〔渡り六尺斗り。〕響雷の如し。同日晴天なりしが、四つ時より雨降り、七つ時大西風二おとし吹、跡は風なし。日本書記に、大星飛響雷の如し。 是は天狗星なりと見へ、右光物の類乎」

さらに、『松の落葉』第一巻は「漢書(からふみ)」のなかの「天狗星」について触れており、日本人一般の天狗についての認識である「樹神」、すなわち樹木の精霊のようなものという捉え方とはやや異なる、中国的な観念と考えていた様子が窺える。

「てんぐといふものは、からふみには天狗星ともありて、よばひぼしをいひけむやうなるに、こゝにては樹神のたぐひをいへれば、 むかしよりみな人のあやしむ事にて、(中略)天狗はいろ変化するものなれば、かゝることもありつるなるべし」

もはや脅威ではなくなった天狗

ところで、近世人の流星に対する理解は、単に「天狗」の名を冠した星とする説から天狗の変化した姿とする見解までさまざまに存在したのであるが、流星からただちに、天下に災厄をもたらすような具体的な天狗の活動を連想することは、いずれも無かったようすである。

たとえば『鸚鵡鶴中記』には、元禄十七年二月のこととして次のような記事で流星見物の様子が述べられている。ここには、中世にみられたような流星に対するあからさまな恐怖の感情はもはや存在しない。

「頃日東方の光り物を見るとて、相応寺下の東の原、扨はかぢや丁下、巾下なんどに毎夜夥数群聚し、或は弁当、敷物、挑灯等もたせ、鑓なんどもたせしも見に出と云。坂上鈴木仁左衛門外よりも見ゆるとて、人多く群る」

思うに天狗を流星とする観念は、戦乱の恐怖や星辰信仰の民間への流布、異国趣味という時代的背景に支えられて室町期前後に流行をみたものの、星が地に降り害悪をもたらすという発想は外来臭が強すぎ、近世人にはなじまなかったのではないだろうか。

そこで近世においては、山伏型天狗が定着する一方で、天狗=流星観は単なる教養として語られるにとどまり、実際に流星が天狗の恐怖を呼び覚ますことは無くなっていたのであろう。

光り物に収斂する観念

その結果として、天狗=流星観の担っていた怨霊的機能は、同じく「光り物」の範疇にあった「人魂」へと収斂されてゆく。

近松の浄瑠璃『曾根崎心中』には、人魂の光り物としての性質や死霊との密接な結びつきが次のように語られている。

「かしこにかこゝにかと払へど草に散る露の我より先にまづ消えて。定なき世は稲妻か(中略)オヽあれこそは人魂よ。今宵死するは我のみとこそ思ひしに。先立つ人も有りしよな」

流星(この場合隕石)は『宮川舎漫筆』巻之五にみるように、御神体として祀られ、なお畏敬の念を留めるのもあるにはあった。

「予隣家永井氏、此度珍ら敷霊石を得て、ことし安政五年の三月十七日、新たに宮居を補理なし、爰に勧請す。神号を天[王星]となん。〔是伝に星降って石と成古事に依る。〕」

注:[]内の文字は偏が「王」、旁が「星」

しかし、『半日閑話』巻三にある、以下のようなきわめて現実世界に近接した解釈もまたあった。

「十月六日夜、牛込辺え壱間半程の石落候由、先年は八王子辺え石落候由、疑らくは異国より員数を計る為ならんやと、此度も益雷鳴有之、夜に入光り物通るよしなり」

そして、次の『雑交苦口記』の記事に代表される、本草学的説明をも受け入れるべき存在へと変化していったようである。

「夏の夜などにみゆる流星といふは、実の星にはあらず、至極ひくきもの也、地の天気登りて天の冷際へあたりて流星となる、落てこがれたる石也」