路傍の石仏

石仏民間信仰

序論

旧き道の傍らに、柔和な顔立ちの地蔵尊。目にした瞬間に、人はふっと清閑な空気を覚えることがある。或いはまた、寂然とした山路に立った馬頭観音。その石仏の奇絶怪絶たる形相は、屡々人々の肝胆を寒からしめる。

仏の都、斑鳩・奈良に丈余の大仏を見、その精美極まった姿に感嘆する人は多い。しかし、路傍に立つ、僅々寸尺の石仏にも、刻線拙かもしれないその野仏にも、何か図り難い力を感じることがある。
こうした石仏の造立は、いかなる信仰に根差したものなのだろうか。野の石仏に格別の感慨を抱く人ならずも、こうした興味は自ずと湧き上がるものではないだろうか。筆者も無論そのひとりであり、珍しい石仏をもとめては各地を渉猟し、一体、二体と見つけては悦に入ったものである。

仏教の世界は深奥極まりなく、教理は甚だ捉え難い。しかし仏を念ずるより外に、何が救いの道となろうか。こうした人々の切なる思いが石仏の造立へと連なった。物言わぬ路傍の石仏が、私達に未だに深い感銘を与えるのも、人々のこころが見事に集約されたその精華ということが出来るだろう。そのいわれを訊ねれば、更にさらに石仏は多くを諭してくれるに違いない。

一般に仏像と呼ばれるものは、如来、菩薩、明王、天の各種に区分することが出来る。

如来とは

如来とは、修行を完く終えて悟りを啓いた者、すなわち覚者を指し、釈迦成道(じょうどう・仏道を成就すること)時の姿に擬える。もと如来とは釈迦の別称であったが、のちには真理の世界、いわゆる浄土なるものが存在し、その浄土に住して蒙昧の族を啓発するという大日・阿弥陀・薬師などの如来も空想され、信仰もより活発となった。

如来は人間を超越した存在であることから、その尊像には頭頂の肉が隆起する(肉髻・にっけい)、眉間に白色の巻毛が生える(白毫・びゃくごう}などの特徴(仏典儀軌「三十二相」と説かれる)が盛られている。また大日如来を除いては、身に衲衣(のうえ)を纏うのみで装身具を用いないのが一般である。

菩薩とは

菩薩(菩提薩唾・ぼださった)は悟りの境地を究めんと日夜相努める人々を指し、万民の救済を誓願に立て、これ使命として生きるものとされている。その像容は釈迦の出家前の姿をもとにしており、頭に宝冠を戴き、上半身に条帛(じょうはく)、下半身には裳を身に付け、全身を装身具で飾るのが一般である。

明王とは

また明王は、真言陀羅尼(呪文)の体現者であり、迷える衆生(生命あるものすべて)をその威武を以て法に畏服せしめ、解脱をはかるとされている。したがって多くの像は忿怒の相をあらわし、魔を破る様々な持物を手にしている。この点如来や菩薩が慈悲の相で衆生の教化にあたるのとは対蹠的といえる。

天とは

さらに、天とは天上界に住する仏教の守護神をいい、仏教成立前に印度にあったバラモン教、ヒンドゥー教等の諸神やその他の異教神が仏教に組み入れられて護法神となったものが多い。本邦に流入後も土着の民間信仰と習合するなどしてますます複雑をきわめている。