山寺・西山荘から天下野まで

佐々宗淳の墓名所旧跡

山寺の水道

山寺の水道(県指定史跡)は、水戸二代藩主徳川光圀の命により永田茂衛門・勘衛門父子が開削した上水用トンネル木道で、別名天神林水道とも。その総延長は約二キロにも及び、現在もこの水道の一部が残されている。

永田家の祖はもと甲斐国(山梨県)の鉱山技術者であったが、その後昆たる茂衛門・勘衛門父子は寛永七年(一六四〇)に水戸家に出仕(初代藩主頼房の時代)し、町屋金山(現常陸太田市)はじめ領内の鉱山開発、水利土木事業等に携わり大功を挙げた。ここ太田天神林の山寺水道、水戸本城下笠原水道や、小場江堰(那珂川)、辰ノ口江堰(久慈川)等はみなこの父子の尽力により成ったものである。のちに子の勘衛門は子の功勲を藩主光圀より顕彰されて円水の号を賜っている。

山寺の晩鐘

天保五年(一八三四)、水戸徳川第九代当主斉昭は中国の「瀟湘(しょうしょう)八景」に擬して藩内各地の景勝地八ヶ所を選んで「水戸八景」と名付け、各々の地に隷書で自ら記した名勝碑を建てた。その一つがこの「山寺の晩鐘」で、県立西山研修所敷地内にある。この地にはかつて、久昌寺に付属した三昧堂檀林(学問所)が建てられていた。この三味堂壇林は、盛時には数千有余の学僧を保する程であったというが、明治二年(一八六元)には久昌寺と共に廃止の憂目を見ている。
なお「水戸八景」撰定の地の名所を全て記すと、

・僊湖暮雪(水戸市常磐町)
・青柳夜雨(水戸市柳河町)
・太田落雁(常陸太田市栄町)
・巌船夕照(大洗町祝町)
・広浦秋月(茨城町下石崎)
・村松晴嵐(東海村村松)
・水門帰帆(ひたちなか市和田町)

これらの景勝地を一巡すると、距離にして約八〇キロメートルほど歩いたことになり、往時の藩の臣士たちはこれを走破することで健脚を養ったといわれる。
因みに、「瀟湘八景」とは煙寺晩鐘・江天暮雪・瀟湘夜雨・平沙落雁・漁村夕照・洞庭秋月・山市晴嵐・遠浦帰帆の八勝地を指す。

西山荘

西山荘は、水戸二代藩主徳川光圀が、元禄四年(一九六一)から元禄一三年(一七〇〇)に七三歳で世を去るまでの約一〇年間隠居所にあてた山荘である。西山に隠居所を定めた理由としては、水戸城下から僅々二○キロメートルと連絡が比較的容易であること、父母の墓所瑞龍山に近接していること、もと佐竹氏の本城があった土地で各種の物資が集積すること、「西山」の地名は光圀の仰敬する伯夷・叔斉兄弟ゆかりの首陽山の別称でもあること、等々が考えられている。

光圀考案と伝えられる表門は、竹を編んで下から突き上げ、夜は下ろして扉とするごく簡素なもの。また屋根はすべて茅で葺かれ、柱には杉の丸太が使用されている。壁は荒壁のまま、長押の釘隠しも牡蠣殻を施したばかりという質素極まりないもので、およそ「天下の副将軍」の隠棲所とは思われない造りである。また山荘の周囲には豪奢な塀を巡らすこと無く、庶民の出入も許したといわれる。光圀はこの地に於て目らを西山樵夫(木こりの意)と称し、黎民に交わり黎民と共に生きたのである。

ところで、老後が「皇統を正閏し、人臣を是非」する目的を以て『大日本史』の編集という一大修史事業を興したことは有名だが、この遠大なる計画は西山に於ても引続いて行われていた。彼が『大日本史』編纂に励んだという書斎は、円窓のある僅か三畳ほどの小さな部屋であり、また「文好メバ則チ梅開き、学ヲ廃レバ則子梅開カズ」として「好文木」の異名を持つ梅を窓の外に植えて自らの戒めとしていたというのはいかにも光圀らしい話である。

現在の建物は、文化一四年(一八一七)失火焼失の後文政二年(一八一九)に復元されたもので、県の重要文化財に指定されている。なおその規模は光圀の時代よりは多分に縮小されている。

伯夷・叔斉兄弟

殷の諸侯孤竹君(こちくくん)の子。父孤竹君には弟の叔斉を世嗣とする心積りがあったが、兄を超えるのは道に背くとして受けなかった。のちに周の武王が殿の紂王を討つにあたり、兄の伯夷と共に、臣下が主君を弑逆するの不可を説くが容れられず、周の粟を食むを恥じて首陽山に篭ったが食尽きて餓死したという。『史記』伯夷伝にこの記事があり、光圀は青年時代にこれを読み非常な感銘をうけたという。

正宗寺

正宗寺は興国三年(一三四一)、佐竹氏九代貞義の庶長子・月山周枢(がっさんしゅうすい)が夢窓疎石(むそうそせき)を招き真言律宗勝楽寺の境内に正宗庵を営んだのがその始まといわれのち佐竹氏一◯代義篤が正宗庵を寺と革めて正宗寺が興り、各地にその末寺も開かれた。同寺は臨済宗円覚寺派の寺院で、当時は佐竹氏の庇護のもと、関東十刹の一つに数え上げられるほどの隆盛をきわめていたという。

打ち続く戦乱に勝楽寺は陵替したが正宗寺は逞しくも生き残り、江戸時代には朱印一〇○石を受け、歴代水戸藩主の尊崇もまた敦かった。同寺は天保九年(一八三六)に総門の一部を残して火災焼失し、凋落の一途を辿ったが、現在は本堂も新たに成ってよく整備されている。

同寺には、夢窓国師頂相(ちんぞう)、月山和尚頂相、木造十一面観音立像等の霊宝多く、また寺の後方の小丘には佐竹一族の墓と伝わる宝篋印塔(ほうきょういんとう)や、彰考館総裁として『大日本史』編纂に尽力した佐々宗淳(助さんのモデルとされる)の墓などもある。

木村謙次の墓

木村謙次は、久慈郡天下野(けがの)村(現常陸太田市天下野)の農家の出で、宝暦三年(一七五三)の生まれである。幼年時代、彼は東金砂山東清寺の僧大雲に師事して読書を学び、成長すると水戸城下に上り立原翠軒の此君堂(しくんどう)に入門して儒学の講義を受けた。その後、彼は京都に赴き、評判高い吉益東洞の下で一年ほど医術を学んでいる。そして帰郷ののちも水戸の藩医に付き医学の研究に余念がなかった。

このように彼は医を本業としていたが、『足民論』を藩に上呈して農村の振興を訴えたり、蒟蒻・煙草の栽培改良、和紙製法の研究を行ったりと、医業以外の分野における功績も大である。

殊に探検家としての謙次は有名で、寛政五年(一七九四)には師翠軒の命によって現ひたちなか市勝倉の武石民蔵と共に蝦夷地に渡り、地勢の調査や民俗の研究を行った。また、ロシアの北方侵入に憤った謙次は、寛永一〇年(一七五八)、幕命を受けた近藤重蔵に従って蝦夷地に向かい、エトロフ島に自筆の「大日本恵登呂府」の標柱を樹立して帰国した。このときの模様は『酔古館日札』に記されており有名である。その後謙次は『海防策』等を著して国家の急務を論じ、文化八年(一八一一)六〇歳で没した。

 寛政十年戊午七年
大 日 本 恵 登 呂 府   近藤 重蔵  最上 徳内 

         善助 金助 孝助 唐助 釜助 阿部助
従者 下野 源助 
         勘助 只助 太郎助 武助 藤助