太田の史跡 久慈川から山寺まで

佐竹寺名所旧跡

県内に数多くの史跡が存在しており、先人たちの生活振りや、地域の発展の様子を窺い知ることができます。特に太田地方にはこうした歴史の跡集中しており、まことに興蛛深い地域であると思われます。太田は中世佐竹氏発祥の地であり、近世の水戸徳川家ともゆかりの深い土地で、これに関わる史跡む多く存在しております。また上古の埴輪窯跡や大小さまざまの古墳も点在しており、かなり早い時期から人類の営みがあったことがわかります。

久慈防人の碑・梵天山古墳

久慈川は 幸く在り待て 潮船に 真梶繁貫き 吾は帰り来む

久慈川に架かる幸久(さきく)橋の袂に、右のように刻まれた碑が建てられている。この詩は『万葉集』巻二〇に収録されている防人(さきもり)歌で、天平勝宝七年(七五五)の作である。またその詠者については「久慈郡の丸子部佐壮(すけを)のなり」との記事があることから、小字名等と照査して常陸太田市粟原町の出身であろうと推測されている。歌の大意は、「久慈川よ、何時までも変わらずに待っていてくれ、海路を征く船に梶をたくさん設けて私はこの里に帰って来よう」というものである。

ところで、大化改新により国・郡の編成が行われるようになると、この地域には久慈郡の号が附せられ、郡家は現金砂郷村の大里に置かれた。今もこの付近では条里制の遺構が残されている地域がある。そしてこれと共に軍制の整備も着々と実行され、郡家の近くには久慈・多珂・那賀の三郡を総ねる久慈軍団が設置された。この歌の作者その久慈軍団に所属していたものであろう。

幸久橋の西北、山田川・久慈川の合流点に臨む丘陵上には、梵天山古墳が存在する。県指定史跡の前方後円墳で、宝金剛院性海寺の裏手にある。発掘調査は行われておらず内部構造は不明だが、昭和四〇年の測量により、全長一五一メートル、幅八一メートル、高ささ一三メートルの規模を有し、南側括れ部には幅四〇メートルほどの造出しをもつことが明らかとなっている。

本墳は舟塚山古墳に次ぐ県下第二位の大規模古墳であって、古くから久自国造(くにのみやっこ)船瀬宿禰の墓と伝えられている。出土の埴輪等からも五世紀代の築造と推定され、いずれにせよ久慈国の基となるべき地域を領していた盟主格の人物の墳墓であることに間違いはあるまい。

墳丘はうっそうとした叢林に覆われ、後円部墳には梵天社が奉置されている。また旧は女人禁制であったともいうことであり、里人の信仰対象として確実に守られていたことがかがえる。

舟塚山古墳
国指定史跡。石岡市北根本にある。石岡市北根本にある。県下第一の規模を誇る前方後円墳で、全長一八六メートル、墳丘の周囲に幅四〇メートルの周濠を廻らし、さらにその外側に陪冢(ばいちょう)数基を伴っている。陪冢の一つからは全国的にも珍しい革製黒漆塗の盾や短甲、刀剣等が出土し注目を集めた。被葬者は応神朝の茨城国造筑紫刀祢に擬されており、前方部には「都久志利根命」の石碑が建つ。

佐竹寺

寛和元年(九八五)、花山天皇の勅願により桑門・元密が創建したと伝えられる古くからの名刹で、本尊は十一面観世音菩薩。坂東二二番札所にも指定されている。同寺は源頼義の後胤、佐竹氏初代昌義の帰依を受け、治承元年(一一七七)には三〇〇貫文の寄進を受けている。さらに文永六年(一二六九)には佐竹氏六代長義によって佐竹寺と呼称されることとなり、以来佐竹氏累代の菩提寺として隆昌を続けたが、第二代佐竹家当主義宣の秋田移封とともに寺運も衰退していった。

本堂(国文指定)は、天文一二年(一五四三)兵火焼失ののち同一五年に再建されたもので、七間四面の茅葺き寄棟造り、正面中央に唐破風をあげ重厚感あふれる偉容を誇っている。左右の火頭窓や柱、組物などは桃山建築の先駆として特に注目される。

坂東三十三ヶ所
鎌倉時代、信仰上の便宜を図って遠隔の地にある西国三十三ヶ所になぞらえて選定された関東八ヶ国、三三ヶ所の観音霊場。常陸では佐竹寺のほか、日輪寺(久慈郡大子町・天台宗、玄勝院(笠間市・曹洞宗)、楽法寺(桜川市・真言宗)、中禅寺(つくば市・真言宗)、清滝寺(土浦市・真宗)の五寺が含まれる。

稲村神社・馬坂城跡

稲村神社は、延喜式内社の一つという古社で、久自国造の祖とされる饒速日命(にぎはやひのみこと)、並びに七代天神を合祀している。この地域には、倭武天皇(日本武尊)が東征の折に天神七代の神々を間坂ほか六ヶ所に祀り戦勝を祈願したという伝説があり、もとは周囲一帯にこう由来を持つ小社が分立していたが、元禄六年(一六九三)に西山荘の徳川光圀がその本宮を明らかにして枝宮を鳩合、社殿を修築させて此処に祀った。その後光圀はこの神社の由緒を重んじてたびたび参詣に訪れたということである。

七代天神
地神(国津神)五代の前に我国を統治していたとされる十代の天神(天津)。「日本書紀」によると、
一代 クニノトコタチノミコト(国常立尊)
二代 クニサツチノミコト(国狭槌尊)
三代 トヨクムヌノミコト(豊斟渟尊)
四代 ウヒジニノミコト(泥土煮尊)スヒジニノミコト(沙土煮尊)
五代 オオトノジノミコト(大戸之道尊)オオトマベノミコト(大苫辺尊)
六代 オモダルノミコト(面足尊)カシコネノミコト(惶根尊)
七代 イザナギノミコト(伊弉諾尊)イザナミノミコト(伊弉冉命)の七柱の神々という。

稲村神社の前方を走る旧道をまっすぐ行くと、馬坂城跡の案内板が目に入る。馬坂城は、佐竹氏初代昌義が天承元年(一一三一)頃から居住したという佐竹氏発祥の地で、当時の規模は、内城約一一〇〇平方キロメートル、外郭約三九二〇メートルというものであった。佐竹氏が藤原通盛を制して太田城を獲得してのちはその支族の稲木氏、つづいて天神林氏の居城となったが、佐竹義宣の秋田転封後には廃城となる。

北に鶴ヶ池、南に山田川をひかえた台地上にある要害堅固の山城で、現在その跡には碑が一つ建てられている。なお現在は畠地となっているので相当埋立てが行われているものと思われるが、城跡には空堀の痕跡も残されている。

旧久昌寺

徳川光圀が生母谷久子の供養のために水戸城下の経王寺(久子菩提所)をここ稲木に遷し、久子の帰依した禅那院日忠上人を開基として創建された日蓮宗の寺院で、その寺号の「靖定山妙法華院久昌寺」も久子の法名「久昌院靖定(せいい)大姉」に拠ったものである。

当時は堂宇一二宇、末寺八ヶ寺を数え、寺領三〇〇石を有する程の大寺であって、日蓮宗の本山の一つとして隆昌を極めていたが、幕末の動乱期に荒廃し、遂には末寺の一つであった蓮華寺に吸収併合されて明治三年(一八七〇)に北東約五〇〇メートルの丘陵地に移された。現在同寺の遺跡には唯一基の寒水石の石標と、ささやかな案内板があるのみで、往時の面影はどこにも無い。